• musashi ishikawa

表現するということ


皆さんこんにちは、時間をかけて料理をするのが好きなピアニストです。

最近はカレーをわざわざスパイスを炒めるところから始めたりしていて、本当に物好きだよなと思っています。日常もとにかく美味しいものが食べたいですね。そのために手間を掛けるのは吝かではないというか。人が作ったものだったら食べられれば何でもいいんですけど。

子供の頃は完全に文学にのめり込んでいて、どんな内容のものでも週に1冊ずつくらいは小説を読んでいたと思うのですが、近頃は気分が乗らないと最後まで読むことが出来なくなっていたりして、精神的に老化が始まっているなと思っています。積読も増えています。物体としての本を読む体験にエネルギーがいるというか。タブレットやパソコンのディスプレイで読む分には大丈夫なんですがね。そういうわけで、今は色々な人の文章をインターネットで見つけて読むという習慣がつきました。乱読といっていいくらい質にはこだわらずに漁っています。そうやって見つけた中で僕が気に入っている若い詩人が興味深いことを言っていました。

「現代詩って、一般的に詩的であると思われている言葉や表現をきり捨ててゆく事によって、逆説的に詩として成立しているような、そんな屈折した構造をもっていると僕は思うけど、それは現代の口語がそもそも詩的な(つまり観念的かつ曖昧な)表現に充ちているからで、詩的であるほど、詩が逃げてゆく世界」

彼は岩倉文也という名前で、本当に素敵な詩や短歌を書く人です。上の言葉を読んだ時、僕が今世の中で使われている耳障りのよい言葉たちに対して抱いているある種の居心地の悪さとか、かつて親しんでいた翻訳文学に対するシンパシーとか、フランス語という明瞭な言語に対する憧れとか、そういうものが色々と腑に落ちたような気がしました。

自分の書く文章は詩的な表現からは程遠いと思いますが、それは詩的に書こうとすればするほど書きたいことから遠ざかってしまっていってしまうという恐れから来ているのかなと思います。演奏もそうで、一見感傷的に聴こえてもつまらないものっていうのはよくありますね。バックハウスやギーゼキング、ジャン・ユボーあるいは最近のアンドラーシュ・シフのように何も余計なものを足さない演奏の方がかえって情感溢れて聴こえるというか。

僕は彼らよりはエモーショナル寄りに作品を表出させがちな人間なので、曲を演奏していて感じるエネルギーと、作品そのものが持つ美しさのバランスを取るポイントについては常々試す必要があるとは感じていますが、自分が言語として分かっているものをどのようにすると人に伝わるのかという視点を忘れないようにしたいなと考えています。

過度に感傷的な表現というのは煮込みすぎたカレーの中に入っている味のしない肉みたいなもので、全体的にはまあまあ美味しい気がするのだけれど、旨味が全部外に出てしまっているやわらかい塊の感触をかみ続けることになってガッカリしてしまうような、そんな感じだと思っています。全部の人々が繊細な舌を持っているわけでもないので満足してくれる人はそれでも沢山いるのだろうけど、自分が分かる以上やる義務が発生するだろうし、折角なら美味しい肉の入った状態のカレーを提供したいじゃないですか。

…自分で作るようになってからはあまり外でカレーを食べなくなったのですが、以前は新宿三丁目にあるガンジーという店によく通っていました。カレーも勿論美味しいのですが、そこで音楽を流しているスピーカーが随分といいやつなんですよね。そして流している曲もBGMというより店主の趣味なのかなというくらい聴きいってしまう。Yesとか掛かっていますからね。カレー屋でプログレ!

体験を売るというのはこういうことなんだなと思いました。店主にとってカレーを食べるというのはこういうことなんだなということが分かる。文化だなあと思います。通うようになる店かどうかって味もそうだけど、そこで食べることが何かしら意味を持てるのかどうかというのも多分にありますよね。僕も文化になる演奏をやっていきたいです。

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